<   2008年 12月 ( 3 )   > この月の画像一覧

ニコラス・G・カー(村上彩約)2008「クラウド化する世界―ビジネスモデル構築の大転換」翔泳社

昔、IT業界にいた人間が「ITにお金を使うのはもう止めなさい」を書いた著者の本を取り上げるのは多少気が引けるが、評判がよさそうなので、感想を書こう。書評については池田信夫ブログに任せて、読みながら感じたことを書くことにする。
 日本で日本語のウェブサイトだけを見て生活していると、クラウド化がすぐそこに迫っていることには気づきにくい。普通の人は「クラウド」とか「Saas」などと言われても何のことか分からないか、あるいはITベンダーが何か目くらましの概念を持ち出したくらいにしか感じないだろう。しかし英語のサイトを多く見る人なら「クラウド」が多少身近感じられるかもしれない。私が個人的に興味のある画像関係のサイトの例を挙げてみよう。
Photoshop Expressがもっと使いやすくなるとPhotoshopやPhotoshop Elementsは不要になるだろう。
不要なところを削除して必要なところだけを印刷するPrintwhatyoulike
写真をアップするとレトロに加工して卒業アルバムっぽいものを作ってくれる『Yearbook Yourself』
注)後の二つは百式に紹介されているので気づいた。
挙げだしたらきりがないのでこれくらいにしておく。個人が何でも自分のPC内で処理する時代は過ぎ去ろうとしている。そういう時代になればPCのOSはごく簡単なものでよい。無料という観点からすればLinuxも有望。「ネットスケープが普及すれば、ウィンドウズはデバグの不十分なデバイスドライバーになるだろう」とネットスケープの開発者のマーク・アンドリーセンが言ったと伝えられるが、まさにその時代が近づいている。ミスター・ゲイツとともにマイクロソフトの時代は終わったのだ。 表題の本の第4章は「さよならミスター・ゲイツ」で始まる。
 不景気な時代なので家計の無駄を見直すと真っ先に「新聞購読」に気づく。新聞の大部分はインターネットで読める。私も新聞購読をやめたいと考えている。この本にも米国の新聞業界が様変わりしつつあることが紹介されている。
新しい生産と消費の経済が引き起こした緊張感は、音楽から映画に至るまで、さまざまなメディアに表れている。しかし、新聞業界ほどこの緊張感が顕著かつ不安定に現れたメディアはないだろう。ながらく文化の大黒柱だった活字ジャーナリズムは、いま苦しみに満ちた変化の真っただ中にあって、その将来が危ぶまれている。過去20年間で米国の新聞購読者数は急落した。1984年の6千3百万人でピークに達した後、米国の日刊紙の発行部数は年間1パーセントの割で減り続け、2004年には5千5百万部となった。その後の減少傾向は一段と深刻化した。2005年には2パーセント以上、2006年には3パーセント減少した。大手新聞は特に厳しい状況だ。2006年の4月から9月にかけての半年で「マイアミ・ヘラルド」の発行部数は8.8パーセント下落した。同じく「ロスアンゼルス・タイムズ」は8.0パーセント、「ボストン・グローブ」は6.7パーセント、「ニューヨークタイムズ」は3.5パーセント、そして「ワシントンポスト」は3.3パーセントも読者を減らした。1984年には、米国の成人の81パーセントは日刊紙を読んでいた。それが2006年には、わずか50パーセントの人々しか読んでいなかった。読者数の減少は特に若年成人で急激である。18歳から24歳までの日刊紙購読者数は、1970年には73パーセントだったが、2006年にはわずか36パーセントまで落ち込んでだ。

この本の後半9章にインターネットのセキュリティの脅威が語られている。たしかにセキュリティは問題ではあるが、この本はそれを強調しすぎだ、と感じた。なぜなら現在のセキュリティの脅威のかなりの部分は、マイクロソフトのデバグの不十分なOS、ウィンドウズから生じたものだ。今まではユーザは選択肢がないため、機能過剰のOSを購入してきたが、クラウドコンピューティングの時代になってもそれが続くとは思えない。皆が、デバグされつくした古いOSを使う状態ではセキュリティは別の様相を示すだろう。セキュリティの脅威を強調する記述は「さよならミスター・ゲイツ」の記述と矛盾している。
 第10章にはプライバシーの脅威が解説されている。個人の購入を検討した品目、検索した言葉などを分析すれば個人のプライバシーがあからさまになるという例として、AOLが公開した加入者の検索記録から(研究者が)個人が特定できてしまった事例を紹介している。データマイニングと呼ばれるコンピュータによるデータ分析をしたものだ。しかし大局的に見ればこの章の記述は適切とは思えない。著者は二つのことを見逃している。そのひとつはPCユーザも馬鹿ではないということ。一部のユーザは自分の足跡を残すのを嫌って、Cookieを削除している。試しに私のFirefoxのスタート画面(Google)を開き朝日新聞を開きロイターに行っただけで、Googleで二つ、朝日新聞で二つ、ロイターで3つのCookieが作られた。これらを分析すれば私がGoogle、朝日新聞、ロイターと渡り歩いたことが分かる。しかし私はこれらのCookieをFirefox終了時にクリアする設定にしている。つぎにFirefoxを起動するとまた別人としてアクセスすることになる。私の検索履歴を明かそうとしても無駄骨だ。プライバシー問題が皆に認識されるようになると多くの人が同じことをするだろう。ブラウザやセキュリティソフトもその機能を強化するであろう。自分のユーザIDやパスワードを公開して不特定多数に使用を薦めるという手口さえ話題になったこともある。このような個人ユーザからの反撃に会うと、データマイニングは極端に困難になる。さらに重要なことは、だれが何のためにそのような分析を行うかということだ。データマイニングには莫大な費用がかかる。データマイニングにより個人の嗜好を明らかにしたところで、当たり前のことしか分からない(企業の儲けにつながらない)。「テロリストを見つける」といような大義名分でもない限り、個人の検索記録など分析しても費用が嵩むだけでたいした利益は得られない。データマイニングにより埋蔵された宝にありつけるというIT企業の宣伝にだまされてはいけない。
 ついでながら第11章の人工知能やセマンティックウェブに関する記述は読むに値しない。人工知能はコンピュータ技術者の夢であり、その夢を梃子にして新しい技術が生まれてきた。しかし人工知能は依然遠い夢の中にある。ついでながら検索エンジンGoogleもそろそろ限界に近づいている。検索結果にノイズが多すぎるとして嫌われ始めている。検索エンジンGoogleがセマンティックウェブに進化することはないだろう。
[PR]
by takaminumablog | 2008-12-28 07:45 | その他の読書日記 | Comments(0)

工藤真由美、八亀裕美2008「複数の日本語―方言からはじめる言語学」講談社新書メチエ

いろいろな国の人に接触すると、「日本人(もちろん私も含む)はどうして英語が習得できないのだろう」と感じることが多い。英会話学校の卒業生が皆英語を話せたら、英語を話す人はもっと多くなるだろう。その理由として、多くの人が「日本語は特別難しい言語」だという言い訳をいう。しかし日本に来た外国人がたやすく日本語を習得しているところを見るとその言い訳は正しくないだろう。私の知っているインド人などは数ヶ月で日本語が完全に話せるようになった。そのインド人に言わせると「インドは多言語国家だから、幼いころから複数の言語を覚えてきた」そうだ。
この本によると、日本語の方言には標準語にはない多様性があるらしい。
「ご専門は何ですか」と聞かれて「言語学です」と答えると、ちょっと困ったような顔をされることが多い。-中略- さらに日本語を専門に扱っているというと、次のような質問を受けることがある。
「日本語って、難しい言語なんですよね」
「日本語はどこから来たのですか」
また、次のように言われることもある。
「日本語って、美しい言語ですよね」
それにどう反応していいか思案していると、
「ほら、敬語とかあるし。色の名前とかたくさんあるし」
などとこちらが首肯するまで何度も詰め寄られて困惑することがある。
 これらの質問に共通しているのは、相手の頭の中にある「言語」「日本語」のイメージが、純粋で静的なものである、という点だ。しかし、ここまでくりかえし述べてきたように、実際には言語はいろいろ混ざっているのが普通だし、日々変化しているものである。だが、ことに日本語の場合、日本=唯一言語・唯一文化国家というイメージがつよい(それはバーチャルな思いにすぎないのだが)。  p.175~p.176

最近方言の復活運動が盛んになっていることは喜ばしい。方言と標準語を使いこなす人は外国語習得能力が高いかもしれない。
[PR]
by takaminumablog | 2008-12-15 10:20 | その他の読書日記 | Comments(0)

水村美苗2008「日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で」筑摩書房

正直に言って、大変衝撃的な内容の本だと思った。挑発的な内容だといってもよい。自分は知識人だと(密かにでもよい)自負する人は必読の書であろう。- そう思ってネットで検索したら確かに話題になっている。なってはいるが、予想に反して今まで日本語や日本文化について偉そうなことを言ってきた御仁の発言は見当たらない。このような挑発的なことを言われると最初は「無視」、無視できないと悟ると「細部のあら捜し」というのが知識人の習性なのかもしれない。
この本は「現在が英語の世紀である」ということに危機感を感じていそうな人から絶賛されている。逆に言うと英語の世紀に危機感を感じないような人はまったく読む必要がないかもしれない。
衝撃を受けたが、「著者の主張に全面的に賛成か」と問われれば「YES」とは言えない。残念ながらもう日本語は亡んだも同然だ。例えばコンピュータのソフトウェアも見てみるがよい。日本で作れらた汎用ソフトウェアはほとんどない。英語の仕様書やマニュアルが書けない日本人には世界に通用するソフトウェアは作れのだ。(しかも日本語に訳されたマニュアルにはときどき間違いがある)科学の分野でも、著者もいうように、まともな研究者は英語で論文を書く。英語のできない研究者は研究者とは言えない。
著者は明治時代の小説を絶賛している。それには私も反対しない。しかし日本の現代小説で、読む価値のあるものはどこにあるのだ。(念のために付け加えると、現在生きているノーベル文学賞を受賞した作家は、政治的理由から受賞したものだ)
[PR]
by takaminumablog | 2008-12-04 14:09 | その他の読書日記 | Comments(0)