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三宅伸吾2007「市場と法―今何が起きているのか」日経BP

カネボー事件の関係者がまったくお咎め無しで、続いて起こったライブドア事件、村上ファンド事件で実刑判決がでたのはなぜか考えてみようと表題の本を読んでいるところだ。この本の58 、59ページに次の記述がある。
もっともライブドア事件を総括するにはまだ早い。地裁判決しかでていないからではない。地裁判決が示した3被告人に対する実刑という量刑の相場が今後、定着するかどうかはっきりしないからだ。株式相場に「詐欺」を働いた者には今後、実刑をもって臨むーとの新しい刑事司法の流れが定着するのであれば、ライブドア事件はその第一弾だったということになる。おそらくそうした総括になるように思われる。数年先にははっきりすることだろう。
また少なからず識者がライブドア事件について、株式相場を欺いたことだけでなく、「若手企業家が、体制を挑発したから摘発された」と指摘する。いわゆる「体制」的人物や老舗名門経営者が摘発され、実刑判決が出れば、こうした指摘も説得力が一気に薄れるだろう。ただ起訴された事件が回ってこないと裁判官は判決を書けず、指摘の誤りもまた検証できない。

日本の歪んだ司法のもとでは検察の裁量権が極めて大きい。体制側の人間は起訴さえされないのではないか、との疑いをぬぐいきれない。困ったことに新聞・テレビのマスメディアがそのことを批判しない。(もっとも検察を批判する記事を書くと、検事から「ニュースが入らなくなるよ、それでもいいの」と脅されるらしいが) 批判しないばかりか次のような間の抜けたコラムまで現れる。
日本経済新聞12月28日夕刊コラム「十字路」(著者は大阪学院大学教授 国定浩一)(全文は引用できないので新聞を見て欲しい)
年末は「十大ニュース」の時期である。-中略―このテーマで議論する場があった。私はあえて一位が堀江被告に有罪、二位が相次ぐ食品偽装、三位がNOVA・コムスン、四位が防衛省汚職(3百回のゴルフ)-などと判断した。つまり「情けないカネがらみの事件」であり、その「張本人たちへの制裁」である。食品偽装だけを取り上げても一月の不二家に始まり、ミートホープ、白い恋人、赤福、船場吉兆とすさまじいまでの連鎖であった。
 これらの事象から浮かび上がる共通のキーワードは「カネ至上」であろう。そういえば「カネさえあればなんでもできる」とか「カネもうけが悪いことですか」と大言壮語した若者たちがヒーローとなった。後略

確かにホリエモンは体制を挑発したが、それと有罪は別次元の問題だ。それで罪が重くなるというのはおかしい。
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by takaminumablog | 2007-12-28 16:33 | その他の読書日記 | Comments(0)

島村英紀2007「私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか」講談社

 これから逮捕されるかもしれない人にぜひお勧めしたい本である。もちろん逮捕される予定がない人にも面白い。私の人気のないブログにはまさか犯罪たくらむ人は見にこないであろう。しかし逮捕されるかどうかと犯罪は無関係らしい。この著者は冷静にその拘留生活を記述していてすがすがしい。
 この本を読もうとする人は島村英紀の前著『公認「地震予知」を疑う』を読んで欲しい。読まないとしてもどんな本かについて知っておく必要がある。私も以前にブログに書いたことがある。この本は地震予知業界を大いに慌てさせたようだ。この本が出版されるまでは、「東海地震の予知」のまやかしは少し勉強した人には知られていても、一般の人には既知の事実ではなかった。著者は良心から「予知に頼った防災の危険性」に警鐘をならしたばっかりに、逮捕され171日間も拘留されたのだ。
裁判の経過などはこちらに詳しいのであわせて参照して欲しい。この本の最後の一節を引用しておく。
日本政府の言い分通り、地震が予知できる、と信じ込まされている日本人たちが、もし地震予知ができずに大地震の不意打ちをくらったら、災害がより拡大する恐れが高い。そうまでして真実を隠そうとする政府の意図は、私には計りかねる。
 私は思っていたよりずっと大きなものの尻尾を踏んでしまったのではないか、その黒い手と、この裁判で闘っても無駄だよ、というのが私の友人の忠告であった。
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by takaminumablog | 2007-12-21 10:28 | その他の読書日記 | Comments(0)

脳研究の最前線

理化学研究所脳科学総合研究センター2007「脳研究の最前線 上・下」講談社ブルーバックス
脳科学研究に関する最新事情を紹介した本である。それぞれ独立した12章からなるが、かなり専門的な事柄も書かれているため、素人がとても全体の感想など書けない。私が面白いとおもったこと、気づいたことなどをとりとめもなく書くことにする。
・知性の起源(3章)
ここに「人類は未来にむけても進化し続けるということです。」という記述があり、「オヤ!」と思った。以前何かの本に「人類の進化はとまりつつある」という旨の記述があった。従来なら産道から生まれることができなかった胎児が帝王切開の普及により出産可能になった、という事例が紹介されていた。現代では知能の高い人がたくさんの子どもを残すとは限らない。先進国はどこも人口減少に悩まされているという事実をみても人類の進化をにわかには信じることはできない。私の想像できる人類の進化は、疫病などで人類が大幅に減ってしまうような事態の後に起こるものだ。
この記述に続く文章は次のとおり。
われわれの脳に宿る心は、次は何を創造し何処へ向かうのでしょうか。生物が今まで経験したことのない差し迫った新規の状況は、電子通信によって多数の心がリアルタイムでつながれたネット社会ではないでしょうか。そこでは、個々の「主体」の意志は身体から離れ、機能別にネットを介して相互作用し、千切れた自己の切れ端が仮想社会で共有され、融合されることになります。

そうかもしれないがそれが「進化」とどういう関係があるのだろうか。「進化」というからには「遺伝」によって変化するものでなければならない。(最近一般書に進化という言葉を比喩的にもちいるのがはやっているが、まさかこの本にはそんな記述はないだろうと信じたい)

・言語と脳の進化(4章)
 私がこの章を読む前までは「言語は考古学的な痕跡を残さないため人類の言語の起源について述べられていることはすべて仮設でしかない」と漠然と考えていた。この章に紹介されている以下の議論は面白い。
口か手か
 さて、人間の言語と脳の対応についてひと通りの説明が終わったところで、言語の起源について現在議論の的になっている項目を一つずつ検討してゆこう。まずは、言語は口が出力、耳が入力として始まったのか、それとも手が出力、目が入力として始まったのかという論争である。
 この論争は、学問的なものとはいえ、どうしても自分の研究の利害を反映させやすい。そこがまた面白いところである。どういうことがというと、サルやチンパンジーを研究している人にとって、言語は手から始まったと考える方が都合が良い。人間以外の霊長類は発声を学習によって変化させる程度が非常に限られているが、手の動きによるサインであれば学習によってさまざまなバリエーションを身につけることができるからである。だから霊長類の「言語」研究のほとんどは、プラスチック片を手で並べ替える「記号言語」や腕の動きによる「手話言語」である。

以前、次のようなジョークをチンパンジー学者から聞いたことがある。
人間以外の霊長類は喉の構造から多様な音声をだせない。「彼らが言語を使えないのは頭が悪いからではなく、喉が悪いからだ」
いっぽう、私のように鳥類の歌の研究をしている立場からいうと、言語は何が何でも音からスタートしたと考えないと困る。そもそも鳥の手は羽になっているから、手話させようがない。というのは当たり前だが、より大切な理由は、鳥の歌とヒトの言語習得には共通する脳・認知過程があることが分かっているからだ。どちらの立場にも、自分の研究対象が人間のより深い理解につながるかどうかは研究者としての死活問題である。

・つながる脳(8章)
人口デバイスを用いて脳にアクセスする試みは、当然のことながら技術的にも倫理的にも、いきなり人に行うことはできません。薬の臨床治験と同じように、マウスなどの齧歯類からはじめてサルで確認し、そして人への臨床治験を行いながら、徐々に安全性を確認していかなければなりません。
 たとえば、リモートラットという面白い実験があります。これは2002年にニューヨーク州立大学のシェーピン教授が報告したものです。
 動物になんらかの行動をさせるときには、その動物がどういう行動をとったらいいか(行動選択)という情報、ここでは外部から脳に送る信号の意味を理解させる必要があります。そしてその情報を動物が理解して正しい行動をとったときには報酬を与えなければいけません。通常の実験では、行動選択のための信号は、ライトの点灯や音などを使います。たとえば赤いランプがつけば右、青いランプがつけば左という具合です。一方報酬はジュースや餌などの現実的なものを与えます。
 ところが、彼らは、課題に必要な右か左という空間情報と、それに応じて行う行動への報酬獲得という全くことなる属性を持つ情報を、電気刺激によってラットに与えたのです。

中略
この実験で使われた一つ一つの技術は、さほど新しいものではありませんが、完全に自律した固体の行動を外部からの電気的な刺激だけでコントロールすることができるという点では、極めて新しく、非常にショッキングでした。もしかしたら、私たちもこのような装置で自由に他人からコントロールされてしまうのではないかという恐ろしさも感じます。

脳研究の暴走をゆるさない監視の仕組みが必要なのではないだろうか。

最後の章「脳は理論でわかるかー学習、記憶、認識の仕組み」はとても面白い。一冊の本にしてもあまりまるくらいの内容を含むため、短すぎるのが難。
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by takaminumablog | 2007-12-12 15:45 | 読書日記(その他の科学) | Comments(0)

「見る」とはどういうことか

藤田一郎2007 “「見る」とはどういうことかー脳と心の関係を探る”(株)化学同人
この本、はじめの方は錯視の例の紹介などが書かれていてとても楽しく気軽に読める。北岡明佳の「蛇の回転」が年配の人では回転して見えない場合もあるというエピソード(p.24)は面白かった。
私もはじめて「蛇の回転」を見たときはとても驚いた。まだ見たことのない人はぜひ見て欲しい。(著者はこの錯視が感じられないらしい。ただしパソコン画面でみると感じるそうだ)シンチレーション錯視の例(この本にこちらの錯視も印刷されている。私の場合、なぜか印刷物ではこの錯視が感じられない。(年齢のせいか?)しかしパソコン画面で見るとはっきり感じる。
 戦争などで脳に障害のある人の症例(視覚物体失認、相貌失認、視覚性運動失行など)の話をきくと「見る」ということが実は複雑な機能の積み重ねから成り立っているらしいことが分かる。
 このような話題に引きずられ読み進むと脳の機能の話になる。それとともに、どんどん難解になり最後は何がなんだか分からなくなってしまった。小説を読むように一機に読むのは無理だった。
 この本の最後の章に次の記述がある。
母校の中高一貫校で脳の話をしたところ、「ものはあるから見えるのですか、見えるからあるのですか」という質問をした少年がいた。まだ中学2年生くらいのこの少年は、自分の持つ素朴実在主義的な世界の理解とちがうことがあることを、私の講義の中に嗅ぎつけたのである。

天才的な少年がいるのには驚いた。普通の人には理解しがたい疑問であろう。
私たちのまわりにある物体はそれぞれには色がついており、これは、私たちが存在しようがしまいが、変わることのない事実のように思える。しかし、そうではない。それぞれの物体の表面は、どのような波長帯域の光を放出または反射するかの固有の性質を持っているが、それを色として感じるのは私たち自身の目と脳の共同作業の結果である。私たち人間を含めた生物のいないところに、色は存在しない。これは近年の脳科学の発展をもって人類が到達した結論ではない。三百年も前に、ニュートン(Isaac Newton:1643~1727)は「光線には色がない」ことを見破っている。
そして、これは色に限ったことではない。音も匂いも味も、私たちの脳が処理して初めて存在する。誰もいなかった太古の地球上で岩石が雷を受けて崩れたとき、地面や空気に強い振動が生じただろうが、音は生じなかった。私たちが口に入れ味わい、鼻に吸い込み匂いを感じない限り、目の前にある食物には味も匂いもなく、あるのは物質の塊とそこから揮発する分子である。
私たち人間の存在とは無関係に、色や音や匂いや味が存在するという考え方はとても自然に思えるのだが正しくないのである。このことは、色や音や匂いや味については、にわかには受け入れがたく感じるが、体性感覚については意外に理解しやすい。バラのとげに「痛い」という感覚が内在しいるとは誰も思うまい。バラのとげが指にささり初めて痛いのであって、「痛い」という感覚が私たちの体や脳を離れて、外界に存在してはいない。

私も「ものはあるから見えるのですか、見えるからあるのですか」について再考してみなければならない。
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by takaminumablog | 2007-12-01 08:00 | 読書日記(その他の科学) | Comments(0)