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ダニエル・H・フット(溜箭将之訳) 2007 ”裁判と社会―司法の「常識」再考” NTT出版

日本の司法には次のような、ビジネスマンなら大抵は知っている「常識」がある。
・日本人は訴訟が嫌い
・日本人は訴訟が嫌いなため裁判外紛争解決手段が発達した。その典型的な例が交通事故に関する紛争
・日本人同士の契約書は非常に短い。しかも契約書の最後に次のような誠意協議条項がついている。「将来本契約により生ずる権利義務につき当事者間に紛争が生じたときは誠意をもって協議するものとする」欧米の常識からすると「契約書は将来の紛争を回避するためのもの」、何のための契約書かということになる。
・アメリカは司法積極主義の総本山、日本は司法消極主義の権化。事実日本の裁判所は憲法判断を極力回避しようとする。(「戦後の日本国憲法は、はっきりと裁判所に違憲立法審査権を与えたが、裁判所がその権限を容易に行使しようとはしなかった。設立から60年の歴史の中で、最高裁判所が制度法を違憲無効としたことは6回しかない。またそこで争われたのも、選挙区割りに関する判決を除けば、どちらかというと些細な問題に過ぎない」p.213)
この本はこれらの「常識」を再考(挑戦といってもよい)したものだ。日本の訴訟件数が少ないのも単に日本人の文化的要因だけではなく、弁護士が少ない、訴訟に時間がかかるなどの制度的な要因も考慮しなければならないことを詳しく説明している。
司法消極主義の日本にも例外があり、裁判所が政策形成に関与した例(解雇権乱用の法理、借地借家の解約に関する法理など)が解説されている。
この本を読みながら次のようなことを考えてしまった。借地、借家に関して地主、家主の権利(民法に明確に記載された内容すらも)を制限する法理が確立したため、その後の賃貸住宅市場の発達を阻害し、長期的には社会にマイナスに作用した。このことが広く認識されるようになり1992年に定期借地権を認める法律が制定されたが、既存の借地借家には適用されないため、問題は解消していない。同じようなことは正社員にのみ適用される解雇権乱用の法理にもいえるのではないだろうか。企業は解雇ができない正社員を採用する代わりに、派遣社員やパートタイマーを使うようになっている。借地借家権の例にあるように裁判所によって確立された法理は法律よりも柔軟性がない。『2003年の労働基準法の改正において、ようやく解雇の要件を定める規定が追加された。次の通りである。「解雇は、客観的に合理性を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」結局は判例の蓄積でできあがった法理をそのまま述べた内容になっている。』p.252~p.253 正社員の解雇の制限は派遣社員やパートタイマーの犠牲の上に成り立っているのではないだろうか。

 法律の専門家でなくても理解できる、日本社会について考えてみたい人にお勧めに本だ。

備考:コメントのご指摘のとおり、「正社員のみに適用される解雇権濫用….」
は「雇用期間が限定されない正社員のみに意味のある解雇権濫用…..」に変更したいと思います。
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by takaminumablog | 2007-02-28 10:03 | その他の読書日記 | Comments(3)

郷原信郎2007“「法令遵守」が日本を滅ぼす”新潮新書

著者(元検事)とタイトルに惹かれて読み出した。「第1章日本は法治国家か」の内容を極端に短縮すると、「公共工事受注に談合が行われるのは、それなりに合理性がある」「談合が駄目なら公共工事はなりたたない」という説明だ。一部の野党(いや、大部分かな)あたりが聞いたら怒り出す内容である。膨大な公共工事を信頼できる業者に請け負わせるためには官製談合も必要だろうが、ちょっとひっかかる。(念のために付け加えると、著者は「談合がおこる背景まで考えなければならない」ことを説明しているだけ)
第2章にはいると、ライブドア事件、村上ファンド事件に話がおよび、「第3章 官とマスコミが弊害を助長する」になると私が常々感じてきたこと特捜部による「劇場型捜査」についての批判が書かれているので「賛成!」と叫びたくなった。
例えば、6月24日の毎日新聞が、ライブドア事件、村上ファンド事件を刑事事件として立件したことは他の証券取引等監視委員会の粉飾決算などと比較してバランスを欠くことを指摘し、「検察の『正義』を『独善』に陥らせないためにも、今回の結果に慢心せず、より公正な捜査が求められる」として検察の捜査手法への批判を含む解説記事を掲載しました。その直後に、毎日新聞の司法クラブ所属の記者が東京地検から出入り禁止の措置をうけたそうです。出入禁止の理由は明示されないことが多いので、批判記事に対する措置とは断定できませんが、少なくとも司法クラブ内部ではそのように受け取られました。
記者クラブがこのような現状では、法令と実態との間に乖離があり法令を遵守することが難しい場合でも、そうした背景事情はほとんど報道されません。談合事件の際の報道姿勢が分かりやすい例でしょう。マスコミは、当局の法令違反の指摘だけを鵜呑みにして、もしくは、当局のご機嫌を損なうことを恐れて報道しようとしないのです。
p.119 ~p.120
全体を読み終わると著者の言いたいこと、フルセット・コンプライアンスの考え方が分かるようになっているが、私にとっては途中の説明で使われた「特捜部のおごり」の説明のほうが面白かった。
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by takaminumablog | 2007-02-20 14:50 | その他の読書日記 | Comments(0)

「自己責任を忘れた登山者」と「環境破壊促進判決」

今回は読書感想ではありません。私は法律のことはまったく分かりません。ただ個人で登山やハイキングを楽しむのでこの種の事件に興味があるだけです。

「奥入瀬渓流落木事故訴訟」というのがあった。この事件についてはいろいろ報道されている。たとえばこちらの共同通信の記事参照。これに先立ち東京地裁の判決の要旨はこちら。
事件のあった場所には行ったことがないので、どの程度観光地化したところか分からないが、被害にあった人にも過失責任はないのだろうか、と疑問がわく。青森県にしてみれば、借用したところでもないところで起こった事故にも管理責任を問われるのは不満だろう。

実は、この訴訟の前に「大杉谷吊橋訴訟」とよばれるばかげた訴訟があった。(裁判官は判例を大切にするので奥入瀬渓流落木事故訴訟に影響を与えたのでは?と素人推理している)
大杉谷についてWikipediaには次のような記載がある。(wikipediaではURLが変わってしまうため、リンクをつけていません。確認が必要な方は各自検索してください)
1979年9月15日、登山サークル一行(ほとんどが初心者)52名が、老朽化した吊橋を「通行は一人ずつ」との警告板を無視し10人ずつ渡った結果、ケーブル2本のうち 1本が切断し1名が墜落死亡1名が重症を負った事故。 当該サークルは、1泊2日で行程を組んでいたため、当該吊橋で待たされると日没までに山の家に到着しなくなることを恐れ、前に渡っている登山客が制止する にもかかわらず通行した。
本事故に関するサークルリーダーの刑事責任は、不問とされた。
遺族は、三重県と国に対し、国家賠償訴訟を神戸地裁に起こした。 神戸地裁は、三重県には吊橋の管理に瑕疵があり、国には吊橋の設置管理費用負担者の責任がある、一方死亡者にも警告板を無視した過失があるとして3割を減額した賠償を命じた判決を下した。
本判決に原告・被告とも控訴した。 特に被告側は、裁判官が被告側の要求する現地検証を拒否し、登山道を「ハイキングコースであり、スカートやヒールでの登山客もいる。」と認定するなど大きな事実誤認をしたと主張した。 控訴審では、被告側の主張を一部入れ、死亡者の過失割合を4割に増やした。 被告の上告を受けた最高裁では、国を費用負担者と認定せず、三重県には上告棄却(敗訴)、国には原審破棄(勝訴)の判決を下した。
本件を契機として、環境庁は登山道の安全に神経を尖らせ、多くの登山道が通行禁止となり、自然保護団体からは自然破壊と評されるくらいの登山道整備を行った。 本登山道も、岩盤に発破をかけてまでして登山道を整備し、1983年に再開された。

中立的な記事とは言い難いかもしれないがこちらにも解説がある。
私は、この事件が起こるかなり前、10人ほどのパーティーで大杉谷に行ったことがある。「一人ずつ」という注意に従い、怖い思いをしながら吊橋をわたった記憶がある。もちろんスカートやヒールでは歩けないかなりきついコースであった。(このコースの終点である大台ケ原山頂は簡単に行くことができる) 事故の後、登山道が整備されたらしいが、それでも遭難事故が起こっている。
最近、登山ツアーが盛んである。パーティーの人数が多くなる体力にばらつきが出るため、危険だと思うが10人以上が多いようだ。すれ違う人に道を譲らない、小走りになったり、草地に踏み込んだり、困った存在だ。私などは「よく事故が起こらないな」と感心している。
これからは、ひとたび事故がおこったら、ツアーの会社やガイドは(自分の責任を転嫁するため)登山道の管理者を訴えるようになるだろう。なんせ判例があるのだから。
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by takaminumablog | 2007-02-15 14:32 | 雑感 | Comments(4)

事故情報の蓄積

本の題名に惹かれて、次の本を読みだした。
ジェームス・R・チャイルズ(高橋健次訳)2006「最悪の事故が起こるまで人は何をしていたか」草想社
多数の重大事の話が次から次とでてきて、かなり読みにくい。なじみのないシステムの話もあるが、オートマ車のペダル踏み間違い事故など分かりやすい事例もある。難解ながらも、いろいろな事故に類似性があるは理解できた。このように重大事故の情報が記録され、蓄積されることは意義深いだろう。私のような隠居ではなく、これから実社会でマンマシン・システムに関わる人に読んで欲しい。
この本を読みながら、「失敗学」というネーミングで注目された本があったことを思い出して、読んでみた。
畑村洋太郎2000「失敗学のすすめ」講談社
この本は失敗を事故よりもずっと広く「人間がかかわった、望ましくない結果」と定義している。失敗に関する著の考えが延々と述べられる。何も考えないで読む人には、ためになるかもしれない。しかし少し注意深く読む人には根拠がはっきりしない主張をレトリックでごまかしているため、読むのがイヤになる。著者を直接知っている人や、その専門分野での業績(おそらく優れた業績があるのだろう)を知る人には意味があるかもしれない。しかし従来からある安全工学とは別に、失敗学を新たに起こしてどんな意義があるか、私には分からない。失敗に関する情報の蓄積が重要だということを本のネーミングによって世に知らしめた価値はあるだろう。マンマシンシステムにはたずさわらない、マスメディアの情報に洗脳された人に読んで欲しい。(マンマシンシステムにたずさわる人は本格的に安全工学を勉強すべきだ)

ところで、日本の風潮に関する感想をひとつ。
日本では事故が起きると原因究明よりも責任者追求の方が優先される。マスメディアもそれを助長する。たとえば航空事故についても、検察・警察による調査が航空・鉄道事故調査委員会の調査に優先する。そして検察・警察はなんとかして機長の責任にきそうとする。(先日の、97年6月、香港発名古屋行き日航706便MD11が乱高下した事件では二審までは無罪になったが、そもそも起訴するような事件なのか?)しかも航空事故調査委員会の報告が証拠として裁判に利用される。当然、責任が追求される可能性がある乗組員は調査に協力しない。米国の常識とはかけ離れている。事故を減らしたい航空業界の人は大声で叫びたいだろうが、そんなことをしたらマスメディアから袋叩きに会うだろうから、何も言えない。
残念ながら日本では重大事故の情報は責任者を追及するためのもので、それを情報として蓄積して将来の発生を減らそうという仕組みはない。
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by takaminumablog | 2007-02-11 17:58 | 読書日記(その他の科学) | Comments(0)

読書日記「感染症」

井上栄2006「感染症」中央公論(中公新書)
この本は「なぜ日本人SARS感染者がゼロだったか」という説明から始まる。真っ先に思いつく説明は、他の東南アジアの国とは異なり人の交流が少ないのだろう、というものだ。しかし「米国から中国・香港・台湾への旅行者は約230万人であり、米国人の患者は27人いた。いっぽう日本人は年間310万人いるのに、患者はゼロだった。これは偶然のこととはいえないだろう。「偶然」とはいわず、徹底的にその理由を考え、あらゆる可能性を考慮しておくことが、将来役に立つことにもなる。」(p.6)
という書き出しで著者の考察が始まる。この考察は海外旅行をしようとする人に大変ためになる。ホテル室内で履くためのスリッパを持参しよう。ウェットティッシュを持参し、テレビドラマの名探偵モンクのように、握手した後やドアのノブに触ったあとは手を消毒しよう。レストランでパンを食べる前に、手を消毒しよう。・・・・

本の最後は「日本人のコンドーム文化」である。著者の主張は「日本人のコンドーム使用率は非常に高い。これがエイズ予防に役立っている。安易にピルに移行するのではなく、コンドーム文化を大切にしよう」というものだ。そういえば池田信夫Blog(The White man’s Burdenの書評に次の記述があったのを思い出した。
エイズ対策資金の大部分はエイズ治療薬に使われるが、これは患者の発症を数年おくらせる効果しかない。しかも感染者は発症するまでの間にHIVをまき散らすので、治療薬はエイズ感染を悪化させるの である。コンドームや性教育などによって感染を予防する対策は、治療薬よりはるかに安価で効果が高いが、アメリカやカトリック系の国はコンドームに開発援助が使われることをきらう。こうした愚かなキリスト教道徳のおかげで、毎年何十億ドルもの援助が浪費されているのである。

コンドーム文化を大切にするだけではなく、日本が積極的に途上国に積極的に広めていくべきだろう。

皆様、気楽に読めてためになるこの本をどうぞ。
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by takaminumablog | 2007-02-09 10:09 | 読書日記(環境問題) | Comments(0)

地球温暖化:感染症

池田信夫BLOGに「地球温暖化問題は感染症に比べれば大した問題ではない」という旨の記述がありました。これに関する私の意見を記述いたします。

IPCC2007の政策決定者向け要約が発表されたので覗いてみた。このレポートでは次のような6つのシナリオに基づいて予測を行っている。
・A1FI「高成長社会シナリオ」化石エネルギー源重視
・A1T「高成長社会シナリオ」非化石エネルギー源重視
・A1B「高成長社会シナリオ」各エネルギー源のバランスを重視
・A2「多元化社会シナリオ」
・B1「持続可能な発展型社会シナリオ」
・B2「地域共存型社会シナリオ」
この一番化石エネルギー源を重視するシナリオの場合(世間の雰囲気からするとありそうもないシナリオのように思えるが)、21世紀末に世界の平均気温が約4℃(2.0~6.4℃)上昇するらしい。日本のマスメディアは、この上限の6.4℃という数字を大げさに取り上げている。日本の科学者もこれに便乗して危機感をあおっている。このあたりのことは池田信夫BLOGに詳しい。
一方典型的な感染症である新型インフルエンザについてはどうなっているのだろう。20世紀に入って以降数十年おきに(1918-19年、1957-58年、1968-69年)3回のインフルエンザ・パンデミックが記録されている。今後もこのような事態が継続すると考えるのが妥当だろう。その被害予測は、WHOによれば200万人から5000万人の死亡者である。くわしくはこちら
通常、感染症に関連する科学者は、世間の不安をあおる極端なデータは除き(正確に表現すれば、スペインインフルエンザのデータではなくアジアインフルエンザのデータを用いて)、200万人から740万人の死亡者という数字を公表している。

もちろん100年後の地球温暖化も問題ではあろうが、いつ起こってもおかしくない感染症に対する対策がお寒い状態であることに比較すると些細な問題に思える。政策には費用対効果を考えなければならない。
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by takaminumablog | 2007-02-08 09:32 | 読書日記(環境問題) | Comments(0)