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気候シミュレーション・モデルは信頼できるか

地球温暖化論のよりどころとなっている気候シミュレーション・モデルに対する疑念が書いてあるとのことなので、次の本を読んでみた。
イヴ・ルノワール著 神尾賢二訳2006「気候パニック」八千代出版
非常に面白い本だが、議論の進め方が複雑で、しかも細部は専門的解説を含む。訳者は「これは学術書ではない。気候学や気象学の専門知識がない一般人にも理解できるし、私たちの住む地球のさまざまな働きについて教えてくれる。」と紹介しているが、私にはおぼろげながら推察することしかできない部分がかなりあった。私の特に印象に残ったことをいくつか紹介したい。

(1)水の役割や水蒸気を無視したモデルは信頼できるか
巷では温室効果ガスが悪者のように言うが、温室効果ガスがまったくなかったら、地球には寒くて生物が住めない。幸い水蒸気という強力な温室効果ガスがあるため生物が存在できる。(水蒸気に比較すると二酸化炭素などの温室効果は小さい) 著者によると現時点では水の循環をモデル化することは不可能らしい。「年間平均降水量は観測できないのだ。この規模はとてつもなく大きいもので、地表から(雲が形成される異なる高度と緯度での)大気にもたらされた潜熱に等しく、そのエネルギーの総和を特定するための不可欠なデータの基礎となる。船がめったに通過しないような海洋に降り注ぐ雨の量を、実際の話、いかに正確に算定するのか?雨量計から集められた大量のデータも、各地の風と気流の条件次第では疑わしいものとなる。」(p.111)「淡水資源の利用が、おそらく人間が生物圏に加えたさ最大の人的異変を構成している。取水と消費の概念は区別され、消費の解釈には人工的に誘発された蒸発も含まれる。気候的観点では、問題の大きさと水の消費が気候にインパクトを与えないとみなし続けることの愚かさを、蒸発した水分の量に関わるエネルギーの移行の数値が明らかにする」(p.306 4章要約部分より)
(2)太陽活動と気候変動
太陽活動が約11年の周期をもつことはよく知られている。しかしその放射エネルギーの変化はわずかであるため、直接気候に影響を与えたとしてもわずかであるとされている。この本では「太陽の磁場が宇宙線を変化させ、宇宙線が雲を操作する」というデンマーク人物理学者の研究が紹介されている。そして気候学学会はこの仮説に敵意を示した話が紹介されている。
(3)科学におけるコンセンサスとは?
「コンセンサス・・・・・科学にはこの言葉の余地はない。科学とは、方法論的疑問と論理的弱点の探求へのたゆまぬ実践を強いる行為である。」(p.250)  政治においてはコンセンサスが重要だ。いまや気候問題は完全な政治問題となってしまった。しかしコンセンサスに基づく結論は科学とは無関係だろう。

このほかにも気候学学会とシミュレーション・モデルに対する辛らつな批判に満ち溢れた本だ。原著は2001年に書かれたものらしいが内容が古くなっているわけではない。しかし、できればもう少しやさしく書いて欲しかった。
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by takaminumablog | 2006-09-29 20:17 | 読書日記(環境問題) | Comments(2)

満足感とは何だろう

グレゴリー・バーンズ著 中野香方子訳2006『脳が「生きがい」を感じるとき』NHK出版
日本語のタイトルだけ見て、気軽に読めると思い読み始めた。ふと、この本の原文タイトルをみるとSATISFACTION:The Science of Finding True Fulfillmentとなっている。どうも「生きがい」について書いた本ではなさそうだ。最初の方にドーパミンと線条体に関する解説がでてくる。この本を手にする前、私が知っていたことと言えば、ドーパミンという快楽物質があるらしいということぐらいだ。(こちらの簡単な解説記事参照)線条体とは何かと思いWikipediaを引くと「線条体(せんじょうたい stiratum)は、終脳の皮質下構造であり、大脳基底核の主要な構成要素のひとつである。線条体は運動機能への関与が最もよく知られているが、意思決定などその他の認知過程にも関わると考えられている。」という文章ではじまり、その後に書いてあることも専門用語だらけで素人には手に負えない。せっかく購入したのに読まずに捨てるわけにも行かないので、とにかく「ドーパミンは動機(モチベーション)に深く関わっているらしい」ということだけを頭に入れて無理に読みすすんだ。
 読み進むと、意外に面白い。なにせ著者自身が次のようないろいろな体験を語り、それに関して脳科学や医学的な見地から解説を加えている。
・金銭的には貧しくても幸せそうなキューバ人の旅行案内の女性の話(キューバという国はアメリカによる経済封鎖をきっかけに持続可能な農業を実現したとして名高い。ちょっとインターネットを検索するとその話が見つかるくらい有名。例えばこちら
・パズルを解いたときの爽快感を味わうためにクロスワードパズル大会に挑戦する話
・究極の美食を求めてシェフの家で料理をご馳走になる話
・脳の深部に電気刺激を与えたフィルムを見る話(もちろん現在では倫理的に許されないため、過去に行われた様子を撮影したものを見ている)
・痛みと爽快感はどう関わっているかを知るためにSMクラブを見学に行く。その後自分でも痛みと爽快感を体験するために研究者が行っている低温の水槽に入る話
(痛みと爽快感は対極にあるものではないという説明は分かったような気がした)
・ウルトラマラソン(100マイルの山道を24時間以内に走るマラソン)参加者の話。著者もさすがこれには参加できないため、参加者をインタビューし医者としてランナーをサポートする。(ストレスは体に悪いという話はよく聞くが100マイルも走るウルトラマラソンは究極のストッレサーだろう。それにも関わらず参加者は完走後の爽快感を求めて走る)
・国民が世界中でもっとも人生に満足しているといわれるアイスランドを訪問する話
・最後にセックスにより満足感を得るためには・・・という話
著者が満足感とは何かを求めて行動する話を読んだ後に、エピローグの文章は説得力がある。
本書を通じて私は、快楽の本質は飽きっぽいものだとほのめかしてきたし、またその快楽と満足感を区別するのにひどく苦労させられた。-中略- 満足の探求と、快楽の追及は別のものだ。満足とは自らの行動に意味を与えたいという人間ならではの欲求の現れである。あなたが満足するとき、あなたはそこに意味を見つけている。そして意味とは、だれもが認めるように、喜びよりも、さらには幸福感よりも長く持続するものである。
 満足感を得るためにはまず行動が求められる。それこそが、快楽や幸福感との決定的な違いだ。

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by takaminumablog | 2006-09-14 14:03 | 読書日記(その他の科学) | Comments(0)

リスクのモノサシ

中谷内一也2006「リスクのモノサシ-安全・安心生活はありうるか」日本放送協会
庶民はリスクに関する感覚はまったくいいかげんだ。マスメディアが大きく取り上げる問題には庶民のリスクとしては取るに足らないものが多い。著者もその点を問題にし、リスクを論じる場合は次の標準化されたリスクセットのどのあたりに当たる問題かを示すよう提案している。
   標準化されたリスクセット(10万人あたりの年間死亡者概数)
   ガン     250
   自殺      24
   交通事故    9
   火事       1.7
   自然災害    0.1
   落雷       0.002
たとえば中皮種(主としてアスベストによって発病するガン)は0.75(2004年度全国平均)で自然災害よりかなり大きいが、火事の半分くらいということになる。BSE感染などは日本でひとり発病するかどうかというくらい小さな問題で、庶民には関係ない。(マスメディアが騒ぎすぎ)ちなみに喫煙の現状は80くらいの値(ものすごく大きい)だそうだ。(この値は喫煙者に限定したものではない)たばこを千円くらいにすると30くらいに減らせるらしい。(はやく千円くらいにすればよいのに!)
 確かにこのようなリスクセットは分かりやすい。しかしよく考えるとおかしいところもある。思考実験としてリスクが極めて少ない社会を考えてみると、老衰(老衰といってもいろいろな病気をともなうであろうが)が見かけ上大きなリスクのようになり、専門的にはちょっと問題だろう。中西準子の本に書いてあった損失余命の方が専門的には適正のようだ。
 リスクというものは程度問題で牛肉を食えばBSE、魚を食えばダイオキシン汚染、肉類をまったく食わなければ栄養不足、食べすぎればコルスロール過剰摂取というようにすべての行為にリスクが付きまとう。マスメディアはリスクを白と黒に限定しすぎていないか、と常日頃感じていた。しかし、この本の著者は次のように述べて庶民感覚を弁護している。
それに対して私たちの行動判断として描かれる世界は白と黒で二分された世界になりがちである。それは安全と危険の境界がはっきりしており、その境界線はアプリオリに決まっている(と思い込む)世界である。白の領域にある物質や活動に囲まれている限りは安全が保障されている(と思い込む)世界である。なぜそのような世界を描いてしまうかには二つの理由が考えられる。一つ目は、私たちの行為はイチかゼロかというかたちにならざるをえないことが多いからである。アジアでSARS感染者が増加したとき、ある人が、リスクがあるか・ないかではなく、リスクはどの程度の大きさなのかという観点から、つまり定量的に感染リスクの大きさを判断しても、行為としてはSARS発生地域に旅行するか、しないかのどちらかになる。体の一割だけは残して残りの九割で旅行するわけにはいかない。これは降水確率30%といわれても、行為選択としては傘を持参して外出するか、傘をもたないかのどちらかを採るしかなく、傘のうち三割だけ持って行くわけにはいかないのと同じである。

 この本にはいろいろな観点からリスクと社会のかかわりが論じられているので、参考になる。私個人としてはマスメディアの偏向についてもっと厳しい口調で書いて欲しいと思った。
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by takaminumablog | 2006-09-05 17:32 | 読書日記(環境問題) | Comments(0)